心の道場体験記
-NO.1-
坐禅体験レポート
私が坐禅体験に至ったのは、林泉寺座禅会の取材がきっかけでした。当初軽い気持ちで座禅会に参加をしたのですが、その中で得られたことは自分でも驚くほど多く、今でも日常の中でその時に教わったことを実践できるように心掛けています。
林泉寺の坐禅会は、毎週月曜日と水曜日に開催されています。初めて参加する方は水曜日に初回参加者のための座禅指導を受ける必要があります。
まず、ご住職または副住職から坐禅の心得についてお話があります。その中で一番印象に残ったのは、「目的のために坐禅をするのではない」とお示しになられたことです。
「目的のために坐禅をすると坐禅は単なる手段に陥るのだ、従って坐禅そのものを目的としなさい。」という教えでした。
これは私にとって衝撃的なことでした。なぜなら私の心のどこかに坐禅をすれば集中力が身に着くのではないか、仕事の効率が上がるのではないか。など、無意識のうちに目的を持ってしまっていたからです。
ご住職のお話は続きます。
「手段というのは常に対象と自分との取引だから、そこには必ず損得勘定が割り込んでくる。」
つまり手段としての坐禅とは「本当にこんなことで集中力が身に付くのかな?こんなことをやって時間の無駄にならないのかな?」など常に損得の中に身を置くことになる。だから坐禅を手段にするのではなく、坐禅そのものを目的とせよと仰られたのです。
私達は常に目的のために行動しようとしますが、そこに落とし穴があるとご住職は仰います。例えば掃除ひとつとっても、私たちは普段綺麗にするために掃除をすると考えます。しかし禅の捉え方は違います。手段として掃除をすると掃除と自分の取引が始まります。つまり、ここは汚れていないから掃除をしなくてもいいや。人目に付かない所だから掃除をしても無駄という考え方になりがちです。
では、どうすれば良いのか?
ご住職は、「坐禅と一緒だよ。掃除そのものを目的としなさい。そうすれば掃除が目的なので汚れていようが、いまいが関係ない。昨日拭いたか拭いていないか関係ない。
掃除が目的だから、ただきちんと掃除をするだけです。だから禅の修行道場は常に綺麗なのです。」と教えてくださいました。
ご住職は「生きる」ということも同じだと仰います。「人間目的を持って生きることは大切かもしれない。だが、そこに囚われてしまうと大きな落とし穴が口を広げて待っているものです。では、どうすれば良いのか。坐禅や掃除と一緒です。すなわち目的のために生きると、生きることが手段になってしまう。だから先ずは生きることそのものを目的としなさい。そのことをしっかりと踏まえた上で目的を持つことは素晴らしい」と教えていただきました。
私の拙い文章では、ご住職の真意は伝わらないかもしれませんが、私の中では何かが大きく音を立てて変わっていくのを実感いたしました。これからも坐禅をはじめ、日常生活の中でもその教えを胸に秘め精進していくつもりです。また、私の坐禅体験レポートを読んでくださった皆様にも是非、坐禅体験をしていただきたいと心より願っています。
林泉寺について